文書資料と口述資料。三つ目の称号。

2007年05月17日

疲労困憊。

何度やっても木曜は疲れが溜まる。

授業が三つ、翌日に発表あり、といっても学部の頃と比べれば大したことないわけだ。日吉時代は、一限から五限があってその後バイトで翌日も一限、なんていう日もあったし、そんな中でサークル活動をしていたわけだ。

単に体力が落ちただけかもしれないが、やはり知的体力を消耗するからきついのだろう。でも、そんな日に飲むビールは旨い。



二限:国際政治論特殊研究

今週からいよいよ本文に入っていく。といっても、今回の範囲は数ページだけ。普段授業で読むような本とは異なって読むのが公刊資料なので、参加者は手探り状態という感じが伺える。確かに一週間で読む範囲が、一週間よりも短くしかもかなり専門的だったりすると、そこから議論を組み立てるのはなかなか大変だろう。

今週と来週の範囲は1958年4月~5月だ。この時期はフランスの第四共和制が崩れる時期でもある。翻って授業で取り上げるNATOにとってこの時期がどういう時期であったか。ぱらぱらと研究書などをめくってみると、どうやら1958年の後半は戦後の米欧関係の歴史にとって一つの転換点だったようだ。論文も「-1958」や「1958-」という副題が付いているものがやたらと多い。

困ったことに、この1958年4月~5月というのはほとんど先行研究では扱われていない。同じ資料集に収録されている資料との関連で言えば、対NATOではなく対ヨーロッパ統合の方が重要な時期なのである。さて、来週はディスカッサントになっているのだが、どうしたものだろうか。

四限:基礎演習?

「政治思想」のセクションがスタート。政治思想は「副専攻」のつもりで学部時代から取り組んでいるので、今日から始まる三回は非常に楽しみである。今日は「現代政治理論のアプローチと研究動向」がテーマ。リベラリズム、コミュニタリアニズム、多文化主義、権力論などの諸議論について約1時間でざっくりとまとめた感じだった。ロールズ、ドゥウォーキン、ノージック、ウォルツァー、サンデル、マッキンタイア、テイラー、フーコーなどが主な登場人物。

学問的なフィールドとしては、これらの人の名前が浮かぶことでイメージはしやすいと思うが、他分野の人からするとこの授業でいう「現代政治理論」が何を指すのかは非常に分かりにくいのではないだろうか。何というかこの分野は、まず政治科学的な思考と一線を画すどころか断絶している場合が多い。また、方法論的な自覚を持っている人が(特に日本では)少ない。そんなところもあって、今日の授業でどこまで学生にこの分野について伝わったのかはやや疑問といったところだ。

が、これは分野自体の特性とでも言うべきものであって、先生の説明そのものは非常に明快で分かりやすかった。全てを網羅的にやったり、最先端の議論をむやみやたらに取り上げるのではなく、現在の論争の原点にあるような「現代政治理論」を紹介するというやり方は非常に良かった。

わずか四回聞いただけだが、分野によってここまで研究動向分析の仕方に差が出てくるものか、と思ってしまう。多分これは先生の個性の問題ではないんだろう。

五限:プロジェクト科目(政治思想研究)

四限の講義のゲストの先生が、こちらの授業でもゲストの先生だった。今日のテーマは「生政治(論)の現在―フーコーとアガンベンを手がかりに」。課題文献は『思想』2005年9月号の「バイオ・エシックス」特集の論文三本だ。フーコー、アガンベンの議論を手掛かりに生政治を論じつつ、脳死問題に代表される医療倫理をその表層として論じる、というのが議論の大きな見取り図といったところだろうか。

先生が徹底的に批判していたのが、現在の脳死移植などに「「自己決定」を媒介にした死の国有化」の発想があることだという。論文を読むまでは、あまり生命倫理など興味ないなあ、と思っていたのだが議論としては思いのほか面白い話であった。

ただし、こういった「境界線」にある議論は研究を進めるのも評価されるのも大変なんだろうなあ、と感じる。今日の授業でもやはり気になったというか、質問が集中したのはその部分だった。例えば「自己決定と生命倫理の関係は?」「臓器移植とフーコー&アガンベンの関係は?」というように、先生が繋げて議論しているものをなぜ繋げる必要があるのか、という質問が多数あった。

来週の議論ではどういった話になるのか楽しみである。

at 23:35│Comments(0) 日々の戯れ言 

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