2007年05月16日

文書資料と口述資料。

外交史の人にしても政治史の人にしても、やはり一番重視するのは文書資料だろう。文書資料といっても種類は色々あるが、外交史の場合は外交文書、政治史の場合は日記などの私文書ということになるだろうか。

とはいえ、文書資料が少ない場合も研究をしていくと多々あることである。最近読んだある本の「あとがき」には、著者がある海外の研究者と話したときに「資料がなくて」といったところ「そういうことを言うのは研究者の怠慢だ」と言われたと書いてあった(大意)。研究をすることの意味は、資料の有無からのみ出てくるものではない以上、資料が無い場合にどうするかということは非常に重要な問題である。

そんな問題意識もあって、オーラル・ヒストリーを読んだり、自分自身もインタビューを試みたりしてきたわけだ。同世代の中では、読んだオーラルの数はかなり多い方だと思うし、インタビュアー経験のある人の話も色々と聞いてきた方だと思う。その代わりに文書資料がおろそかになってはいけないので、眼精疲労と闘いながらマイクロやパソコンで文書資料も読んでいるわけだ。

一般にはオーラル・ヒストリーをやっている人でも、自分が研究をするとなるとオーラルはあくまで補助資料であって「オーラル<文書資料」というのが普通だろう。この理由はいくつかあるが、?オーラル・ヒストリーなどの口述資料には記憶違いなどもあり信用度が低い、?口述資料だけで研究を進めてもインタビュー経験が豊富でフットワークが軽いジャーナリストにも勝てない、といったところが主な理由だろう。

自分自身もそのように考えているので、あくまでオーラル・ヒストリーは補助資料と位置づけてきたのだが、最近あるオーラル・ヒストリーをやっている人と話していて面白い話を聞いた。

それは「オーラル>文書資料」ということだ。なぜそう考えるかといえば、その人が戦史を研究しているからであるという。戦場の実態が報告として上がってくるのは、基本的に報告書という形である。テクノロジーが発展した今もそうなのかは分からないが、少なくとも第二次大戦時はそうである。ここでは二つの問題が存在する。一つは記録者が全てを把握するのは容易ではないということ、もう一つは都合の悪い戦闘の実態を上には報告しない、ということである。これは下から上への報告である。

上から下の場合でも問題はいくつかある。その最も大きなものは、上で決めた方針が下では必ずしも実行されないことが多々あるというのだ。どこかの国の「上に政策あれば、下に対策あり」という言葉を思い出してしまう。これに加えて、日本の戦史を研究する場合、資料の不在と散逸という問題が存在する。

こういった問題があるがゆえ、戦史研究者の中には文書資料に懐疑的な人がいるということらしい。主な理由は資料がないということだと思うが、『戦史叢書』も膨大な数の関係者の口述記録を基にして書かれた部分が多い。

この話は、なるほどなー、と考えさせられる。自分の研究に直接関係するわけではないが、ある研究をしている人には信頼度が高い資料も、他の研究をしている人にとっては信頼が出来ないということは、恥ずかしながら盲点であった。資料の公開状況や質に大きな違いがあると、同じ外交史でも扱う資料は大きく変わってくる。日本外交、中国外交、アメリカ外交、イギリス外交、フランス外交を、仮に語学的な問題が無いとして全く同じ意識で資料を読んだら出来上がるものに大きな差が出てくるだろう。

じゃあ、自分の専門である日本外交史はどうか。まず、資料の公開度が低いことは大きな問題である。また公開されていたとしても、文書の作り方のせいか政策決定過程が非常にみえにくいという大きな問題がある。というわけで、日本外交研究者は、多くの場合諸外国の資料を当たるわけだ。これにオーラル・ヒストリーを加えることは可能だろう。

色々と考えても結局結論は変わらないというのはやや虚しいところだ。

at 23:19│Comments(0)エッセイ風 

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