慌し過ぎる一日。休憩中の読書。

2006年08月21日

夕涼みに読書。

色々とやらないといけない作業が目白押しな8月下旬。行きたかった富士山や海も行けそうにない、非常に残念。

今日の甲子園の決勝も久々の好試合でしっかり観ていたかったのだが、パソコンとテレビを半々くらいにしか見ることが出来なかった。

それでも作業をひと休みして本を読むことくらいは出来る。忙しい時に限ってふっと読みたくなるような本が目に付いてしまうから不思議だ。今日は家でひたすらテープ起こしをしていたのだが、その合間にちょっと本屋へ出かけたところ↓を見つけて一気に読んでしまった。

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粕谷一希『作家が死ぬと時代が変わる』(日本経済新聞社)
 粕谷一希は『中央公論』から高坂正堯をデビューさせ、また中央公論社退社後に『東京人』『外交フォーラム』といった雑誌を立ち上げた戦後日本を代表する雑誌編集者の1人である。本書の副題は「戦後日本と雑誌ジャーナリズム」であり、著者の体験を中心に雑誌ジャーナリストの視点から見た戦後日本論が展開されている。編集者の視点であるので、中心的に取り上げられているのはやはり論壇であり文壇であるが、言論のアリーナであった『中央公論』に集う人々に関する回想は、単なる論壇史や文壇史に留まるものではない。
 本書は回想録の体を取っており、著者の生い立ちから現在までをほぼ時系列に沿って取り上げている。1930年生まれの著者はほぼ最後の旧制高校世代である。そんな著者の戦争体験、学生時代からは今は無くなってしまった教養主義の香りが漂ってくる。世代的な影響はもちろんあるのだが、その後の思想形成に重要だったのは読書経験だったようである。大学卒業後は中央公論社に就職し『中央公論』や『婦人公論』を担当した。「嶋中事件」や「三島自決」といった戦後史に残る事件と近い立場にいた筆者の回想は興味深く、そして貴重なものである。1978年に中央公論社を退社した著者は、編集者という「作り手」してだけでなく「書き手」としても活躍していく。「作り手」と「書き手」、中央公論時代とその後の活躍、こういった外から見るとどういった繋がりがあるのかなかなか分かりにくいことも、回想録という形であるとよく分かるものである。人間それぞれの人生は面白いものなのである。ちなみに本書の題名「作家が死ぬと時代が変わる」とは、著者の元上司であり自身も編集者であった嶋中鵬二氏の言葉であるという。この言葉が編集の立場にいた著者の心に強く残ったのだろう。
 本書は正確には回想録ではない。本書は「語り下ろし」なのである。聞き手はノンフィクション作家である水木楊と匿名のもう1名である。ベストセラーとなった新潮新書の『バカの壁』が「語り下ろし」であることは有名だが、「語り下ろし」のいい部分が本書にもうまく生かされている。それは語り手の言葉が編集者だけでなく聞き手を通じて文字化されるために、内容面を中心として読者に伝わりやすい形になるということである。もちろん聞き手が間に入ることによるマイナスもあるし、学術的な目的に利用される場合はそういった点が重要になるのだが、本書では「語り下ろし」がうまく効果を発揮している。
 前述のように、本書が直接取り上げるのは論壇、文壇、出版業界、この3つの世界である。しかし本書からはもっと広く戦後日本社会とこの3つの世界の繋がりが見えてくる。ただの昔話ではなく、より普遍的なメッセージを本書を一読すると感じることだろう。

at 22:44│Comments(0) 本の話 

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慌し過ぎる一日。休憩中の読書。