2006年07月06日

知的な真摯さ(?)。

7月に入り、そろそろ春学期の授業も終わりが近づいてきた。

専門外ながら興味がある分野なので毎週楽しみにしていたプロジェクト科目(政治思想研究)も今日で終了。ゲストの先生が計6人、というのは学生にとってとても贅沢な授業だ。

とはいえ、ゲストの先生次第で授業の満足度も大きく変わってくる。

例えば、博士論文の研究を基にした話をする先生もいる。必ずしも博論が学者にとっての到達点とは限らないが、大多数の学者にとっては博論が一番時間と情熱をかけた研究であることが多い。そんな研究を1、2時間で話してもらいその真髄を理解することは出来ないかもしれないが、本人からエッセンスを聞くことが出来るというだけで学生にとっては貴重な経験である。

例えば、博士論文の次に始めた現在進行中の研究について話をする先生もいる。博論で行われていた議論を比べて荒削りな面があるのは当然であるが、しかし新たな研究に対する情熱といったものが見えれば、それは博論の話をした時と同様に面白いものになる。場合によっては、ある意味で完成をした博論よりもこれから完成を目指す研究にこそ学生にはヒントがあるのかもしれない。

例えば、広範な知識を持ち学会に留まらず論壇等でも活躍する先生もいる。そんな先生がある特定の分野について話をする。多分、先生にとっては自分の持ち駒のごくごく一部を切り取って話をしているだけなのだろう。それが見えた瞬間に話は急速に面白くなくなる。そもそも研究とは突き詰めて考えなければ分からない、徹底的に調べてみなければ分からないことに必死に取り組むことに意味があるのである。片手間に行うことは可能だが、それはどこかで手を抜かないと無理である。それを認める真摯さが無ければ、どんな質問も自分の類型に当てはめて答えるといったことにしかならない。

例えば、自分が生涯をかけて取り組んでいる課題について話をする先生もいる。それは、何か特定の思想家に関する研究かもしれないし、社会的な運動と結びつくようなものかもしれない。そんな人の本は読んでいて迫力があるものである。しかし、それだけでは面白くない。そこに知的な真摯が加わって初めて面白くなる。例えば、隣接分野について語る時に慎重に留保を付けることをしたり、対話する姿勢があればそれは非常に興味深いものになる。しかし、隣接分野をも断定的に論じ、対話する姿勢がなければそれはただの独善になってしまい、学生にとっては苦痛でしかない。

この授業は2年前にも聴講したのだが…結局、内容以上にその先生の知的な真摯さこそが自分にとっては重要な意味を持った。知的に真摯でない人の話を聞いていても、苛立つだけだし対話の可能性を感じない。もちろんどんな話もちゃんと聞く姿勢は忘れてはいけないものだけれども、とはいえ、ということである。

本人がゲストとして来たかどうかは別として、金曜日の授業も同様である。日本外交に関する博論ベースの本を毎週読んでいくと、同じ博論でも知的な真摯さには大きな差があることが分かる。

こんなことを修士論文も書いていない自分に言う資格があるかは分からないが、先人たちを見てそこから教訓を引き出すことは無意味なことではないだろう。

知的に真摯であり続けたいと強く思う。

at 23:04│Comments(0)エッセイ風 

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