2006年01月21日

卒論要旨。

冷戦終結と日本外交の「二つの選択」
~「野党」の変化に注目して~

<論文要旨>

 冷戦後の日本は二つの大きな選択をしている。一つは国際安全保障への参画という形で自衛隊を海外に派遣したことである。もう一つは、1996年の『日米安全保障共同宣言』(日米安保再定義)によって日米同盟を外交の基軸とすることを再び選択したことである。とはいえ、日本にとってこの二つの選択は容易ではなかった。「冷戦の勝者」とまでいわれた日本は、湾岸戦争で「敗北」した。また日米両国は80年代半ばから徐々に深刻な経済摩擦状態に陥っていた。さらに、冷戦終結期の日米関係修復の試みはことごとく失敗に終わったのである。

 従来の研究は、冷戦終結による国際環境の変化と北朝鮮の核開発問題などから「二つの選択」を説明することが多い。しかし、これらの研究では「二つの選択」を別個に分析されており、統一的に分析されているわけではない。このような研究に対し本稿では、「二つの選択」を統一的に理解することを目指し、選択の過程で「野党」の果たした役割に注目する。

  「野党」の変化の原点は1970年代にあった。ヨーロッパとは異なり東アジアの冷戦は多極間ゲームとして展開された。その多極間ゲームの転機となったのは1970年代であった。日本は、この過程で対米基軸と共に大国間の戦略ゲームには関与しないという冷戦後に繋がる外交路線の選択をしている。「野党」にとって大きかったのは米中接近の過程で中国が日米安保条約を積極的に肯定したことである。これは「野党」の対米観に根本的な修正を迫るものであった。この後、「野党」は徐々にその外交構想を修正していく。

 その後、新冷戦を経て冷戦終結となる。世界に冷戦終結を印象付けたのは湾岸戦争であった。湾岸戦争は日本にとっても転機となった。湾岸戦争は、日本の政府与党・「野党」・世論にそれぞれにとって「敗北」であった。この結果もたらされた変化は、まずPKOへの参加に代表される国際安全保障への参画をもたらした。この過程では公明党の変化が重要であった。

 同時期の日本は、経済摩擦の影響もあり日米関係の「漂流」という危機にあった。外務省が主導した日米関係修復の試みはなかなか実を結ばなかった。しかし、その一方で「野党」に大きな変化が起こりつつあった。そして、この変化は社会党の「政策大転換」に結実する。実は社会党の「大転換」の少し前から、実務レベルで冷戦後の安全保障のあり方を模索する動きが始まっていた。この試みの中から、日米安保再定義へつながる動きは生まれたのである。日米安保再定義は、日米同盟の役割を大きく拡大するものであり、従来であれば大きな抵抗が予想されるものであった。しかし、「野党」の70年代からの変化はこの時期には決定的なものになっており、日米安保再定義は大きな抵抗もなく達成されたのである。

at 23:09│Comments(0)アウトプット(?) 

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