2005年12月19日

現代ロシア論特殊研究?発表。

3限、現代ロシア論特殊研究?。今日は、ここ2週間ほどの懸案だった発表。第二次世界大戦前夜である1939年の国際関係について、ヨーロッパと東アジアの連関に注目しつつ整理することが目的。かなり込み入った話なので、興味のある人がいたら直接聞いてください(あんまりいないだろうけど)。

内容を要約するのも面倒なので下にレジュメをコピペしときます。

※発表では細かい話を色々したけどレジュメには反映されてません。

今回はかなり色々な文献を読み込んだけど…ひと言で表すなら「玉石混交」。重要な文献は、D・C・ワット、アントニー・ベスト、アルヴィン・クックス、三谷太一郎、佐々木雄太、三宅正樹あたりだろうか。一部はレジュメの参考文献のところに挙げてあるので興味があればどーぞ。

今回の発表の大きな「穴」になっているのは中国。これは中途半端にしか調べることが出来なかったということもあるが、今回はヨーロッパ要因を使って東アジアの現象を説明することが目的だったという意味もある。その目的はある程度達成できたと思うが、先生のコメント「ヨーロッパの研究を参照することによって、何が言えて、何が言えないかを見極めなければいけない」ということの意味が、両肩にのしかかってくる。まぁ、具体的な研究を進める入り口に立って地図は手に入れた、というのが今日の発表の意味になるのかな。

問題は、卒論で冷戦終結期を扱うから当分戦前の研究をやる暇が無いということ。←大問題



第二次世界大戦前夜の国際関係
~極東とヨーロッパの連関に注目して~

【問題意識】

 第二次世界大戦前夜は、ヨーロッパ情勢と極東情勢が密接に結びついた時代であった。本報告では、密接に結びついた1939年を中心にヨーロッパ情勢と極東情勢を整理することによって、1941年12月の日米戦に帰結する東アジアの国際関係を理解する一助とすることを目的とする。具体的には、日本の日中戦争収拾方針の変遷を軸に、その変遷とヨーロッパ情勢の連関を中心に検討を行う。

※紙幅、発表時間の都合もありヨーロッパ情勢にはあまり詳しく触れることが出来ない。この点については質疑応答で対応したい。

【資料】

□年表
1937年 7月     盧溝橋事件(日中戦争勃発)
       8月     中ソ不可侵条約締結
1938年 9月     ミュンヘン会談
1939年 3月     ドイツ、ボヘミア・モラヴィアを併合
       5月     ノモンハン事件(8月まで徐々に戦闘の規模拡大)
              独伊、「鋼鉄同盟」締結
       6月     日英、天津危機(4月の事件をきっかけに日本軍が天津租界封鎖を計画)
       7月     アメリカ、日米通商航海条約破棄を通告
       8月     独ソ不可侵条約締結
       9月     ドイツ、ポーランドを攻撃
              英仏、ドイツに宣戦布告(第二次世界大戦勃発)
              ソ連、ポーランドを攻撃
      11月     ソ連、フィンランドを攻撃
1940年 5月     ドイツ、フランスを占領(ダンケルクの撤退)
       9月     日独伊三国同盟締結
      11月     日華基本条約締結
1941年 4月     日ソ中立条約締結
       6月     バルバロッサ作戦(独ソ戦勃発)
       7月     日本、南部仏印進駐
       8月     米英、大西洋憲章発表
      11月     アメリカ、ハルノートを提示
      12月     日本、真珠湾攻撃(日米戦争勃発、アメリカ参戦)

□各国の目標
・日本(現状打破勢力):満洲国を含む中国東北部の権益の確保→支那事変の収拾
・ソ連(現状打破勢力?):二正面作戦の回避→極東の軍事力強化&西側での提携相手(英仏or独)の模索
・ドイツ(現状打破勢力):勢力圏の拡大→提携相手(日英ソ伊など)を模索
・イギリス(現状維持勢力):帝国防衛→宥和&抑止政策の組み合わせ
・アメリカ(現状維持勢力):日独の権益拡大阻止→国民世論の「教育」

【本論】

■日中戦争(支那事変)への対応

 日本側(とくに軍部)における、日中戦争の根本原因は国民政府の背後にあると想定されたコミンテルンとソ連の極東における「赤化政策」に求められる。ここからも分かるように、当初、日中戦争の先にあるものは日英米戦争ではなく、日ソ戦争だと考えられていた。(三谷[1984])

 ・日本の収拾策(三谷[1984])
?日独伊枢軸強化により、その後にくる対ソ戦に対処するだけでなく、日中戦争の早期終結にとって不可欠なイギリスの妥協を引き出す。
?枢軸強化と並行して、(英米可分説に立って)対米工作を進める。

 ・ソ連の対応
→日中間の提携を避けるために中国を支援する(1937年8月には中ソ不可侵条約締結)と同時に、極東の軍事力強化に努める。対中援助は1938年4月~7月までがピークであり、これは日本の陸軍が枢軸強化の動きが1938年7月から活性化したこととも符合する。(三宅[1982])

 ・イギリスの対応(ベスト[1997])
→当初は英米協力を模索するがアメリカ側の積極的な対応は得られず。さらに対応策をめぐり、強攻策を主張する外務省と宥和を支持する首相が対立する。最終的に具体的な中国援助が決定されたのは1939年2月のことであるが、翌月には日本軍がスプラトリー諸島に進軍するなど、結局対日抑止政策は失敗。

・アメリカの対応(細谷[1998])
→「パネー号」事件などもあり、在華権益が侵害される事件が頻発したことによりアメリカの対日態度は次第に硬化する。繰り返し抗議の意思表示を行うが、日本の軍事行動面ではほとんど抑制効果を上げず。結局、日米通商航海条約や1936年中立法の建前もあり、有効な対処は出来ず。

 以上の対応は、天津危機や独ソ不可侵条約の締結と第二次世界大戦の勃発により大幅な修正が迫られることになる(後述)。

■ミュンヘン会談とその後(同盟再編成の模索)

 1938年には5月と9月の2度のチェコ危機を経て、英独仏伊の4カ国がミュンヘンで会談。結果、ドイツはチェコのズテーテンラントを得る。
 
 ◇各国の対応(ワット[1995]、斎藤[1995]、ベスト[1997])
・イギリス:ミュンヘンでの宥和の裏で再軍備に努める。
・ドイツ:ミュンヘン後も勢力圏の拡大を目指す。
・ソ連:ミュンヘンに呼ばれなかったことに衝撃を受け、従来の集団安全保障戦略を転換。翌年4月にはリトヴィノフからモロトフへ外相が交代
・日本:ミュンヘンでの英仏の宥和に勇気付けられ翌10月に広東占領作戦を実施、さらに11月には近衛首相が「東亜新秩序」声明を出した。

■ノモンハン事件(日ソ対立)

 1938年の張鼓峰事件に続き、1939年5月には満蒙国境のノモンハンで武力衝突が勃発する。徐々に戦火は拡大していく。ソ連は事態を重く見て、6月にジューコフを現場に送る。ゾルゲから日独交渉の経緯の報告を受けていたソ連は、ノモンハン事件を局地戦に終わらせる決意であったのだろう。8月20日には大規模な戦闘になり、日本軍は敗北(※純粋な兵力的被害という点ではソ連側も甚大であったという説もあるが、その後の対応などを検討すれば、軍事戦略的にはこの事件が日本軍の敗北であることは明らかであろう)。
 第二次大戦勃発後の9月15日、ノモンハン事件についての停戦協定が日ソ間で成立する。

■天津危機(日英米対立)

 1939年4月に中国海関の親日派の官吏が中国人ゲリラに殺害された。この事件の処理をめぐって日英は対立。6月半ばに日本軍が天津租界封鎖計画を発表したことにより、日英間で交渉による解決が目指されることになった。しかし、ヨーロッパの状況は、極東における危機の拡大ではなく緊張緩和を求めていた。結果、天津危機の処理過程でイギリスは日本に対して譲歩を重ねた。7月22日に結ばれた有田=クレーギー協定は、日本の現状を追認したもの、と各国に受け取られた。(佐々木[1987])

 イギリスの一方的な対日譲歩に危機感を抱いたアメリカは、7月26日に日米通商航海条約の破棄を通告。これにより、日本は日中戦争をめぐる従来の対米政策の根本的な修正を迫られることになった(=日本の日中戦争収拾方針?の破綻)。以後、日本の対米外交の目標は無条約状態の回避におかれることになる。(細谷[1988])
 
■独ソ不可侵条約(同盟再編成の帰結)

 1939年4月から、ソ連は提携を求める英仏との会談が始まった。一方、その裏でソ連はドイツとも交渉を行う。約3ヶ月の交渉の結果、結局ソ連はドイツとの提携を選択(8月半ばに決断?)。8月23日、独ソ不可侵条約が締結される。

※この交渉過程にノモンハン事件は影響を与えていたか?
→長期的な意味ではイエスだが、短期的にはノーではないか。

 独ソ不可侵条約締結によって、日本では平沼騏一郎内閣が総辞職。同時に、枢軸強化という日本の従来の政策も修正を迫られることになった=日本の日中戦争収拾方針?の破綻

■第二次世界大戦勃発

 独ソ不可侵条約によって、ソ連と結んだドイツは9月1日にポーランドを攻撃。9月3日、英仏はドイツへ宣戦布告(※ドイツから宣戦布告をしたわけではないということは興味深い)。もっともその後半年にわたって西ヨーロッパで実際の戦闘は起こらず。

 ヨーロッパで大戦勃発によって、イギリスは対独勝利が第一義的な目的となった。翌年6月までの「奇妙な戦争(Phoney War)」の間は、日本に対して「限定的宥和政策(a policy of limited appeasement)」を採り、それ以降日独伊三国同盟の締結までは、徹底した対日宥和を行った。一方の日本も、独ソ不可侵条約締結や日米通商航海条約の破棄通告によって戦略の見直しを迫られており、危機状態の緩和に関心を持っていたため、第二次大戦勃発後、日本の真珠湾攻撃までは日英対立は抑制された。(Best[1995])

■まとめ

・イデオロギーが一時的に消えた時代
・現状維持勢力VS.現状打破勢力に収斂
・選択肢の幅を検討する必要

【主要参考文献】

□書籍
佐々木雄太『三〇年代イギリス外交戦略』(名古屋大学出版会、1987年)
細谷千博『両大戦間の日本外交』(岩波書店、1988年)
ドナルド・キャメロン・ワット『第二次世界大戦はこうして始まった』(上下巻、河出書房新社、1995年)
斎藤治子『独ソ不可侵条約』(新樹社、1995年)
Antony Best, Britain, Japan and Pearl Harbor: Avoiding War in East Asia, 1936-1941(London: Routledge, 1995)

□論文
中西治「一九三八-一九三九年のソ連外交」『国際政治』(第72号、1982年)
三宅正樹「ヨーロッパ諸列強の動向と日本」『国際政治』(第72号、1982年)
ピーター・ロウ「イギリスとアジアにおける戦争の開幕」細谷千博・編『日英関係史 一九一七~一九四九』(東京大学出版会、1982年)
三谷太一郎「独ソ不可侵条約下の日中戦争外交」入江昭、有賀貞・編『戦間期の日本外交』(東京大学出版会、1984年)
波多野澄雄「独ソ不可侵条約と日本・ドイツ」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
アルヴィン・D・クックス「戦われざる日ソ戦」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
ゲルハルト・クレープス「ドイツ・ポーランド危機(一九三八~一九三九年)に対する日本の調停」『軍事史学』(第25巻、第3・4号、1990年)
駒村哲「ノモンハン事件と独ソ不可侵条約締結」『ロシア史研究』(第53号、1995年)
アントニー・ベスト「日中戦争と日英関係」『軍事史学』(第33巻2・3号、1997年)

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