2005年10月27日

西洋外交史特殊研究?発表。

結局、大崎に泊まり、そのまま大学へ向かう。

2限、西洋外交史特殊研究?。H・ニコルソン『外交』の第1章~第5章。俺は討論者の役回り。レジュメは作らず口頭で発表。一応論旨&コメントは以下のとーり。

◇◇◇

?ニコルソンは一般的に用いられる「外交」という言葉を、その立法的側面に重きを置く「対外政策」と、その執行的側面に重きを置く「外交」に分類している。そして後者の分析を本書では行うとしている。しかし、現代のように首脳外交も発達し、また栗山尚一のオーラルヒストリーなどからも分かるように外務官僚の意識も変わってきている(局長以上の特定職の公務員は、政治家と意見が対立した場合、辞表を出して自分の信念を貫くべきと栗山はいう)状況において、ニコルソンの分類は適切なのだろうか。

→もう1人の討論者も「立法的側面と執行的側面」という分類についてコメントしていたが、俺の議論は若干彼の議論とは違う。俺の議論は、このような分類をする意味合いは十分あるのだろうが、現代において外交そのものが変質した状況を考えると、この分類はやや「時代錯誤」ではないか、ということ。このような文脈の違いがいまいち理解されていなかったようだ。また、授業中はあまり話すことが出来なかったが、俺がこだわりたかったのはニコルソンの議論の前提となっている「民主的統制」について。本書では、ニコルソンの本心がどこにあるにせよ文章の上では立法的側面についての「民主的統制」の必要性は認めている。ニコルソンの議論は、「民主的統制」というある種の「ウソ」に基づいた議論であり、この前提がある限り議論には明かな無理が出てくるのではないだろうか。国民による外交の監視は、大きな枠で政府の暴走を止める、という以上になることはないのではないか。それ以上詳細な外交テーマに関する統制は、学問やジャーナリズムの仕事だろう。

?本書は、西洋において発達した「外交」を扱っている。しかし19世紀半ば以降国際政治の世界は東アジアをはじめとして西洋の外へも広がった。そして現在は世界中に広がったともいえるだろう。そして東アジアには東アジアなりの、中東には中東なりの「外交」(西洋的な意味の外交ではないにしても)の発展があり、それが西洋流の「外交」をどのように受容したのか、ということを見なければ現代における「外交」の理解は一面的になってしまうのではないだろうか。

→こちらは、それほど考えた問題提起ではない。ニコルソンの議論の内側に入るのではなく、
やや離れることによって得られるものがあるのではないか、という知的な試み。これについては、俺の問題意識を逆さまにした考えがあることを先生がコメントしてくれた。西洋が東洋に進出したことによって東洋が変わるというのが俺の問題意識だが、逆に西洋が東洋と接触したことによって西洋自身が変化した、ということだ。非常に興味深い視点。

◇◇◇

諸事情によりこの記事は修正しました。よってオーノ君及び俺のコメントとのつながりが無くなってしまいましたがご了承下さい。

at 22:01│Comments(3)アウトプット(?) 

この記事へのコメント

1. Posted by オーノ   2005年10月30日 01:37
特殊研究を履修している者です。発表お疲れ様です。
授業についてのコメントは非常にわかりやすく、貴人から見た西洋外交史特殊研究?が記されております。
馬鹿で無知な僕にはわかりかねる点があったので質問させていただきたいです。
「学問がどのようなものかを理解できる」という価値観やそれを把握する(若しくは、可能と捉える)分析的枠組みはどうやって自覚されたのでしょうか?
二十余年で理解されたなら貴人は天才です。
僕のような浅学でさらに馬鹿というどうしようもない人間にとって、「学問はなにか?」という問題は解決がされていない大問題です。人類史上この問題にまともに回答を見出した人物は残念ながらいない気が・・・。
「言葉尻を捉えてそこに噛み付いたり、些細な言葉の定義にこだわっていては議論は進まない。もちろん社会科学において言葉の定義は重要だが、その授業での議論の本筋から外れるならば授業後にでも個人的に聞けばいい。」
議論の本筋は誰が決めるのですか?
言葉を超えたところにあるかもしれない「モノ」の重要性はソシュールやラカン、そしてヴィトゲンシュタインに触れるまでもなく、ヒュームですら問題に挙げていると思います。ある意味で、修辞法の始まりをギリシアに見出せばそこからかもしれません。人によっては(たとえば、西郷信綱は)もっと以前の、言葉の誕生にその問題を見出しています。
議論の本筋が必然的決定性もしくは普遍的妥当性を内在しないものだとするならば、「言葉尻を捉えてそこに噛み付いたり、些細な言葉の定義にこだわってい[く]」ことにも相当の未来性はあると思います。
「議論の本筋」を決定する隠れた権力者やヘゲモンの存在を感じそれに気付け、という趣旨で貴人が発言なされているならば、非常に間接的な批判に感動します。
長文失礼しました。
それでは。
PS 
「他人はそうであるかもしれないが、お前はそうであってはならない」
というニコルソンが、
「東洋人の精神の背後にあるものを見出そうとして時間を消費してはならない。多分その背後には何もないかもしれないのだ。それより、君[イギリス人]の精神の背後にあるものに関して、どのようなことであれ、彼が些かも疑うことのないよう、専心したまえ。」
と言う忠告を引用しているのはなんとも皮肉ですね。
2. Posted by オーノ   2005年10月30日 01:50
ちなみに、「後期のこの授業は人の話を聞かない人(聞けない人)、人の話を理解できていないのに理解できていると勘違いしている人が多い」、との御指摘ですが、僕も貴人も含め、そして細谷さんも含め、あの教室にいる生徒全員に妥当することでしょう。
人の話を聞かない人≠人の話を聞けない人、なので前段部は触れないことにしました。
「人の話を理解できていないのに理解できていると勘違いしている人」。これは残念なことに人間全員ですね。自分の意見すら完全に理解できない我々がどうやって他人の意見を理解するのでしょうか?「理解した」との錯覚に陥るのでしょう。いえ、錯覚ではないかもしれません。意識的に行っていることかもしれませんね。
そのような壊滅的状況に立たされている人間世界において、「発言を躊躇ってしまう」ことはできればやめてほしいです。
僕は貴人の意見を完全に理解することは永久にできませんが、少しでも貴人の思考の簡易化の結果としての話を理解しようと努力しています。
「こっちが何を言っても通じない」のが必然と捉えてみるのはいかがでしょうか?
そこにおいて、失うものは何もありません。
だから、言葉があるのです。
だから、未来が作られるのです。
3. Posted by とりとり@管理人   2005年10月31日 01:18
>オーノ君
丁寧なコメントどーも。オーノ君の言うことは基本的には理解できるよ。俺も自分自身の「不知に対する自覚」は人一倍強いし、政治思想を考える上での言語学的転回なんかについても勉強したから。ただ、俺が言いたいことはそんなことではなくて、それ以前の問題。特殊研究という授業が1つの社会(福澤流に「人間交際」でもいい)であり社交の場であるならば、それなりのマナーが必要だということ。自分が何か言いたいことがあってもちょっとこらえて相手の話を聞く、であるとかそういうレベルの話。好きなことを好きなだけ話したいのであれば、それはそれが出来るコミュニティで「魂の共鳴」としてすればいいわけだからね。オーノ君に俺の言いたいことが通じるかは分からないけど、まあそういうことです。ちなみに俺が「発言を躊躇って」も発言しないってことはそうそうないからご安心を。

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