2011年01月27日
年末年始の授業(12月第3週~1月第3週)
忙しさを言い訳に、ブログを一ヶ月半も放置してしまいました。
開設当初は毎日更新、修士課程の途中からは数日ごとの更新、博士課程に入った頃から週一回の更新になり、段々とペースが落ちています。月一回の更新ではあまり意味がないので、もう少しペースを上げて週一回は新しい記事をアップしたいと思います。
ツイッターを始める前は、ブログとツイッターは質が違うメディアだから、ブログの使い方は変わらないだろうと思っていたのですが、いざ始めてみると細々とした情報は見つけた時につぶやいてしまい、それで満足してしまうということが分かりました。まぁ、あまりコミュニケーション・ツールとしてツイッターを使っていないからかもしれませんが。
また、twilog(リンク)のように過去のツイートをブログのようにまとめてくれる補完サービスも充実しているので、ただタイムラインに自分のつぶやきを垂れ流すだけでなく、ちょっとしたメモ代わりにも使えることが分かってきました。いささか問題があるような気もしますが、自分のtwilogで過去のつぶやきを眺めてみると、記憶の彼方にあったような情報を見つけることも多く、それまでのブログの使い方を代替する意味もあるのかもしれません。
そんなわけで新刊情報などにご関心のある方は、ブログではなくツイッターをご覧ください。
ブログ放置のもう一つの言い訳は、とにかくやらなければいけないことが多かったということです。
比較的時間がかかったのは、①某共著の原稿、②某座談会の翻訳(下訳)の二つですが、この他にもお手伝いしている政策提言プロジェクト関係や、いくつかの報告書や手続き書類の作成、自分の研究や共著関係の研究会での報告×3などなど、色々とやることがありました。結局年末年始の休日は0日というメリハリの無い1ヶ月半を過ごしてしまいました。
どの仕事も、もっと効率良く出来るはずですし、ちゃんと休む時は休んで仕事に取り組むということが出来ないとまずいと再確認しました。
そんなわけで、積み残していた諸々の作業があらかた片付いた今週火曜日は、久しぶりに大学に来ないで(行かないでと書かない点がまずいですね)、映画を観て、カフェで小説を読んで、散歩してとゆとりある時間を過ごしてみました。
2011年は、効率良く仕事を片付けていく、という当たり前の目標を掲げたいと思います。
さて、放置していたブログを更新することも、新しい研究に取り組むためには必要だろうということで…なのかは分かりませんがとりあずこの間の授業記録を簡単に。
面白かったシンポジウムの話を書き出すと止まらなくなりそうなので割愛します。
この1ヶ月半は授業数が少なかったので、週単位ではなく授業ごとにまとめておきます。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
暦通り進んだこの授業は3回ありました。
12月第3週は、Lorenz Lüthi, The Sino-Soviet Split, 1956-1966: The Cold War in the Communist World (Princeton: Princeton University Press, 2008) の書評でした。
中国政治を専門にされている先輩が発表されたのですが、とても勉強になりました。中国や東欧のアーカイブ事情紹介、イデオロギー重視の近年の研究状況や、本書の立場を説明しつつ、その陥穽を指摘する報告はさすがです。
内容を幅広く紹介する報告だったので、本文を読まずに読んだ気になってしまいましたが、この本は冷戦史に関心があるのであれば、目を通しておくべき一冊だと感じました。ウェスタッドのGlobal Cold War は昨年邦訳(『グローバル冷戦史』名古屋大学出版会)が出ましたが、共産圏については朝鮮戦争関係を除いて近年の研究成果はあまり紹介されていない印象があります。この本の他にも、Chen Jian, Mao's China and the Cold War (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2001) のように海外では必読文献に挙げられるものも邦訳は出ていません(Chen Jianの本はこのブログで紹介したことがあります→リンク)。邦語では、菅英輝先生が編集された『冷戦史の再検討――変容する秩序と冷戦の終焉』(法政大学出版局、2010年)でChen Jian(陳兼)の論文を読むことが出来ますが、やはり研究書として邦訳されるべき一冊だと思います。
12月第4週は、米欧関係を専門にするゼミの後輩による報告で、テーマは「『冷戦終焉』再考」、各国の資料開示状況や米欧の最新の研究を踏まえた研究動向報告で、これまたとても勉強になりました。
Cold War History の最新号(Volume 10, Issue 4)が冷戦終結に関する書評特集を組んでいるくらいに、各国で研究が進んでいます。一次資料を用いた冷戦終結研究という点では、日本は完全に周回遅れだということを改めて気が付かされます。こういった研究動向を押さえた上で、いかに自分の研究の意義を打ち出していくべきかを考えるいい機会になりました。
議論は色々出ましたが、書き出すと長くなるのでこれも割愛します。
1月第3週は、最終回の授業ということで、報告者が二人、時間も1時間近く延長になりました。報告テーマの一つは、「冷戦史研究におけるアプローチの多様化とその課題」という大きな話でした。一つの本やテーマを詳しくというわけではなく、概説的な話だったので、初回か最後の授業にやるべきテーマとしては良かったのでしょう。
個人的に興味深かったのは、先生が「歴史は現在(いま)の視点から見ないと面白くない」と繰り返し言っていたことです。歴史をなぜ学ぶのか、ということは昔から繰り返されている問題ですが、先生の答えは「現在(いま)を理解するために歴史を学ぶ」ということなのだと思います。それは、歴史の教訓を引き出すといった類の話では全く無く、現在に繋がる歴史や現在の国際情勢を理解するために歴史を学ぶ必要があるということです。うまい言葉や表現が見つからないのですが、徹底して実用的に歴史を考えている点が印象的でした。
こう長々と書いたのは、それが冷戦史研究のあり方や個々の議論に対する先生のスタンスに繋がっているからです。「空中戦」や「細かな定義」の話を回避しようとするのはなぜかという答えはこれです。例えば、年末の授業で取り上げた「冷戦の終結」は、突き詰めていくと冷戦をいかに定義するか、すなわち何が終わったのかを定義するところに行きつきます。しかし、その定義をすることによってどれだけ「現在(いま)」の理解が変わるのか。このような視点は、何となくボンヤリとは自分でも考えていたような気がするのですが、先生の言葉によってはっきりと理解することが出来ました。
とにかく毎回、発見が多い授業です。
もう一つの報告は1980年代後半の中国共産党指導部内部における政治体制に関する検討でした。ソ連と異なる道を歩み、現在に至るまで政権を握り続けている中国共産党をいかに考えるかは、改めて言うまでも無く極めて重要な課題です。この点は先生が授業で繰り返し話していたことですが、最後の授業にしてようやくこのテーマが議論になりました。
おそらく報告者の修士論文の一部になるものだと思うので報告の中身は書きませんが、中身と共にこのテーマを研究しようとする時にどういった文献を引いているのかが興味深かったです。「この文献は引いてもいいんだ」という感覚や利用可能な資料などは、少しでも国や時代が違うと分からないものなので、率直勉強させて貰いました。
報告で引用していた文献の中で手軽に読めるものだと、『趙紫陽――極秘回想録天安門事件「大弾圧」の舞台裏!』(光文社、2010年)があり、衝動買いをしてしまいました。が、いまだ積読です。
概要しか書きませんでしたが、最初はM2の院生の修論中間報告ばかりだったこの授業も、後半は「冷戦の検討――今何が、問題になりうるのか」というテーマを正面から取り上げた回が続いたので良かったです。テーマ次第では、来年も先生の授業を履修しようと思います。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
先生の出張などもあり、院ゼミは2回でした。
12月第3週は、M1の後輩による修論構想発表でした。どういった研究テーマを選んでくるのだろうかと思っていたところ、今回は帝国史と絡めたテーマでの報告でした。もう少し、先行研究を幅広く見つつ、選んだケースの周辺事情を洗い出す必要がありそうだなという印象でしたが、帝国史というアプローチを組み入れること自体はとても面白いと思うので、頑張って欲しいところです。
院ゼミ参加者に3人も戦間期のイギリス外交を専門にしている院生がいるので、どうも耳学問ばかりが進んでしまうのが問題です。もともとイギリス外交は「趣味」なので、戦間期についても自分で重要な研究を読み進めていきたいところです。
1月第2週は、スキデルスキー『ケインズ』の第5章「経済政策勧告者としての資質」と第6章「ケインズの遺産」を読みました。
これまでの章が難しかったのに対して、今回の二つの章は何と言うか非常に分かりやすく、あっさり読み終えてしまったという感覚です。
第5章では、第1次大戦時と比較しつつ第2次大戦時のケインズの政策提言を取り上げ、さらに戦後に連なるブレトン・ウッズ協定交渉、戦後の英米借款協定の話が取り上げられています。この辺りは、基本的に師匠の『「アメリカ」を超えたドル』や、リチャード・ガードナーのSterling-Dollar Diplomacy などで詳細に書かれていることなので、特に目新しい話はありませんでした。
第6章は、経済学説史的な話で、現実の経済情勢と共にケインズ評価が様々に変わるがケインズ自身の経済学も大恐慌という時代背景の下で構築されたものであることを忘れてはならない、といった話でした。
あっさり読み終えてしまったと書いたものの、よくよく考えてみれば、これだけコンパクトに上記二つのテーマをまとめるというのはすごい話です。邦訳が昨年出た『なにがケインズを復活させたのか?――ポスト市場原理主義の経済学』(日本経済新聞出版社)も時間を見つけて熟読したいと思います。
研究報告あり、輪読ありの贅沢な院ゼミでしたが、来年からは少し院生が増えそうなので、もしかすると輪読は無くなるかもしれません。それはそれで、ちょっと残念。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
1月の授業が直前に取りやめになった関係で、12月第3週の授業が最後になってしまいました。
ゲストは中山俊宏先生、演題は「アメリカにおける宗教的保守勢力の思想と行動」でした。参考文献として挙げられたのは↓の四つ。
・「米中間選挙とティーパーティ運動」東京財団HP(2010年10月30日)
・「オバマ政権を拘束する政治的亀裂」『外交』第2号(2010年)
・「変貌を遂げる福音派―政治と信仰の新たな関係」森孝一・村田晃嗣編『アメリカのグローバル戦略とイスラーム世界』(明石書店、2009年)
・「政治を保守化させたテレビ宣教師―ジェリー・ファルウェルとモラル・マジョリティ」亀井俊介・鈴木健次監修、古矢旬編『史料で読む アメリカ文化史 第5巻 アメリカ的価値観の変容 1960年代―20世紀末』(東京大学出版会、2006年)
関心があるテーマだったので、中山先生のHPを覗いて他に関連しそうな文献が無いか探したところ山のように見つかり、すごい仕事量だなと改めて感じた次第です。
政治思想の授業というよりは、「政治勢力としての宗教保守」という視角からアメリカ論といった趣でしたが、色々と考えさせられるところの多いテーマで面白かったです。やはり「政治的なるもの」ならぬ「アメリカ的なるもの」があるのだなと思いました。
懇親会での「生意気」に度が過ぎたことを1ヶ月経っても反省しています。
開設当初は毎日更新、修士課程の途中からは数日ごとの更新、博士課程に入った頃から週一回の更新になり、段々とペースが落ちています。月一回の更新ではあまり意味がないので、もう少しペースを上げて週一回は新しい記事をアップしたいと思います。
ツイッターを始める前は、ブログとツイッターは質が違うメディアだから、ブログの使い方は変わらないだろうと思っていたのですが、いざ始めてみると細々とした情報は見つけた時につぶやいてしまい、それで満足してしまうということが分かりました。まぁ、あまりコミュニケーション・ツールとしてツイッターを使っていないからかもしれませんが。
また、twilog(リンク)のように過去のツイートをブログのようにまとめてくれる補完サービスも充実しているので、ただタイムラインに自分のつぶやきを垂れ流すだけでなく、ちょっとしたメモ代わりにも使えることが分かってきました。いささか問題があるような気もしますが、自分のtwilogで過去のつぶやきを眺めてみると、記憶の彼方にあったような情報を見つけることも多く、それまでのブログの使い方を代替する意味もあるのかもしれません。
そんなわけで新刊情報などにご関心のある方は、ブログではなくツイッターをご覧ください。
◇◇◇
ブログ放置のもう一つの言い訳は、とにかくやらなければいけないことが多かったということです。
比較的時間がかかったのは、①某共著の原稿、②某座談会の翻訳(下訳)の二つですが、この他にもお手伝いしている政策提言プロジェクト関係や、いくつかの報告書や手続き書類の作成、自分の研究や共著関係の研究会での報告×3などなど、色々とやることがありました。結局年末年始の休日は0日というメリハリの無い1ヶ月半を過ごしてしまいました。
どの仕事も、もっと効率良く出来るはずですし、ちゃんと休む時は休んで仕事に取り組むということが出来ないとまずいと再確認しました。
そんなわけで、積み残していた諸々の作業があらかた片付いた今週火曜日は、久しぶりに大学に来ないで(行かないでと書かない点がまずいですね)、映画を観て、カフェで小説を読んで、散歩してとゆとりある時間を過ごしてみました。
2011年は、効率良く仕事を片付けていく、という当たり前の目標を掲げたいと思います。
◇◇◇
さて、放置していたブログを更新することも、新しい研究に取り組むためには必要だろうということで…なのかは分かりませんがとりあずこの間の授業記録を簡単に。
面白かったシンポジウムの話を書き出すと止まらなくなりそうなので割愛します。
この1ヶ月半は授業数が少なかったので、週単位ではなく授業ごとにまとめておきます。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
暦通り進んだこの授業は3回ありました。
12月第3週は、Lorenz Lüthi, The Sino-Soviet Split, 1956-1966: The Cold War in the Communist World (Princeton: Princeton University Press, 2008) の書評でした。
中国政治を専門にされている先輩が発表されたのですが、とても勉強になりました。中国や東欧のアーカイブ事情紹介、イデオロギー重視の近年の研究状況や、本書の立場を説明しつつ、その陥穽を指摘する報告はさすがです。
内容を幅広く紹介する報告だったので、本文を読まずに読んだ気になってしまいましたが、この本は冷戦史に関心があるのであれば、目を通しておくべき一冊だと感じました。ウェスタッドのGlobal Cold War は昨年邦訳(『グローバル冷戦史』名古屋大学出版会)が出ましたが、共産圏については朝鮮戦争関係を除いて近年の研究成果はあまり紹介されていない印象があります。この本の他にも、Chen Jian, Mao's China and the Cold War (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2001) のように海外では必読文献に挙げられるものも邦訳は出ていません(Chen Jianの本はこのブログで紹介したことがあります→リンク)。邦語では、菅英輝先生が編集された『冷戦史の再検討――変容する秩序と冷戦の終焉』(法政大学出版局、2010年)でChen Jian(陳兼)の論文を読むことが出来ますが、やはり研究書として邦訳されるべき一冊だと思います。
12月第4週は、米欧関係を専門にするゼミの後輩による報告で、テーマは「『冷戦終焉』再考」、各国の資料開示状況や米欧の最新の研究を踏まえた研究動向報告で、これまたとても勉強になりました。
Cold War History の最新号(Volume 10, Issue 4)が冷戦終結に関する書評特集を組んでいるくらいに、各国で研究が進んでいます。一次資料を用いた冷戦終結研究という点では、日本は完全に周回遅れだということを改めて気が付かされます。こういった研究動向を押さえた上で、いかに自分の研究の意義を打ち出していくべきかを考えるいい機会になりました。
議論は色々出ましたが、書き出すと長くなるのでこれも割愛します。
1月第3週は、最終回の授業ということで、報告者が二人、時間も1時間近く延長になりました。報告テーマの一つは、「冷戦史研究におけるアプローチの多様化とその課題」という大きな話でした。一つの本やテーマを詳しくというわけではなく、概説的な話だったので、初回か最後の授業にやるべきテーマとしては良かったのでしょう。
個人的に興味深かったのは、先生が「歴史は現在(いま)の視点から見ないと面白くない」と繰り返し言っていたことです。歴史をなぜ学ぶのか、ということは昔から繰り返されている問題ですが、先生の答えは「現在(いま)を理解するために歴史を学ぶ」ということなのだと思います。それは、歴史の教訓を引き出すといった類の話では全く無く、現在に繋がる歴史や現在の国際情勢を理解するために歴史を学ぶ必要があるということです。うまい言葉や表現が見つからないのですが、徹底して実用的に歴史を考えている点が印象的でした。
こう長々と書いたのは、それが冷戦史研究のあり方や個々の議論に対する先生のスタンスに繋がっているからです。「空中戦」や「細かな定義」の話を回避しようとするのはなぜかという答えはこれです。例えば、年末の授業で取り上げた「冷戦の終結」は、突き詰めていくと冷戦をいかに定義するか、すなわち何が終わったのかを定義するところに行きつきます。しかし、その定義をすることによってどれだけ「現在(いま)」の理解が変わるのか。このような視点は、何となくボンヤリとは自分でも考えていたような気がするのですが、先生の言葉によってはっきりと理解することが出来ました。
とにかく毎回、発見が多い授業です。
もう一つの報告は1980年代後半の中国共産党指導部内部における政治体制に関する検討でした。ソ連と異なる道を歩み、現在に至るまで政権を握り続けている中国共産党をいかに考えるかは、改めて言うまでも無く極めて重要な課題です。この点は先生が授業で繰り返し話していたことですが、最後の授業にしてようやくこのテーマが議論になりました。
おそらく報告者の修士論文の一部になるものだと思うので報告の中身は書きませんが、中身と共にこのテーマを研究しようとする時にどういった文献を引いているのかが興味深かったです。「この文献は引いてもいいんだ」という感覚や利用可能な資料などは、少しでも国や時代が違うと分からないものなので、率直勉強させて貰いました。
報告で引用していた文献の中で手軽に読めるものだと、『趙紫陽――極秘回想録天安門事件「大弾圧」の舞台裏!』(光文社、2010年)があり、衝動買いをしてしまいました。が、いまだ積読です。
概要しか書きませんでしたが、最初はM2の院生の修論中間報告ばかりだったこの授業も、後半は「冷戦の検討――今何が、問題になりうるのか」というテーマを正面から取り上げた回が続いたので良かったです。テーマ次第では、来年も先生の授業を履修しようと思います。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
先生の出張などもあり、院ゼミは2回でした。
12月第3週は、M1の後輩による修論構想発表でした。どういった研究テーマを選んでくるのだろうかと思っていたところ、今回は帝国史と絡めたテーマでの報告でした。もう少し、先行研究を幅広く見つつ、選んだケースの周辺事情を洗い出す必要がありそうだなという印象でしたが、帝国史というアプローチを組み入れること自体はとても面白いと思うので、頑張って欲しいところです。
院ゼミ参加者に3人も戦間期のイギリス外交を専門にしている院生がいるので、どうも耳学問ばかりが進んでしまうのが問題です。もともとイギリス外交は「趣味」なので、戦間期についても自分で重要な研究を読み進めていきたいところです。
1月第2週は、スキデルスキー『ケインズ』の第5章「経済政策勧告者としての資質」と第6章「ケインズの遺産」を読みました。
これまでの章が難しかったのに対して、今回の二つの章は何と言うか非常に分かりやすく、あっさり読み終えてしまったという感覚です。
第5章では、第1次大戦時と比較しつつ第2次大戦時のケインズの政策提言を取り上げ、さらに戦後に連なるブレトン・ウッズ協定交渉、戦後の英米借款協定の話が取り上げられています。この辺りは、基本的に師匠の『「アメリカ」を超えたドル』や、リチャード・ガードナーのSterling-Dollar Diplomacy などで詳細に書かれていることなので、特に目新しい話はありませんでした。
第6章は、経済学説史的な話で、現実の経済情勢と共にケインズ評価が様々に変わるがケインズ自身の経済学も大恐慌という時代背景の下で構築されたものであることを忘れてはならない、といった話でした。
あっさり読み終えてしまったと書いたものの、よくよく考えてみれば、これだけコンパクトに上記二つのテーマをまとめるというのはすごい話です。邦訳が昨年出た『なにがケインズを復活させたのか?――ポスト市場原理主義の経済学』(日本経済新聞出版社)も時間を見つけて熟読したいと思います。
研究報告あり、輪読ありの贅沢な院ゼミでしたが、来年からは少し院生が増えそうなので、もしかすると輪読は無くなるかもしれません。それはそれで、ちょっと残念。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
1月の授業が直前に取りやめになった関係で、12月第3週の授業が最後になってしまいました。
ゲストは中山俊宏先生、演題は「アメリカにおける宗教的保守勢力の思想と行動」でした。参考文献として挙げられたのは↓の四つ。
・「米中間選挙とティーパーティ運動」東京財団HP(2010年10月30日)
・「オバマ政権を拘束する政治的亀裂」『外交』第2号(2010年)
・「変貌を遂げる福音派―政治と信仰の新たな関係」森孝一・村田晃嗣編『アメリカのグローバル戦略とイスラーム世界』(明石書店、2009年)
・「政治を保守化させたテレビ宣教師―ジェリー・ファルウェルとモラル・マジョリティ」亀井俊介・鈴木健次監修、古矢旬編『史料で読む アメリカ文化史 第5巻 アメリカ的価値観の変容 1960年代―20世紀末』(東京大学出版会、2006年)
関心があるテーマだったので、中山先生のHPを覗いて他に関連しそうな文献が無いか探したところ山のように見つかり、すごい仕事量だなと改めて感じた次第です。
政治思想の授業というよりは、「政治勢力としての宗教保守」という視角からアメリカ論といった趣でしたが、色々と考えさせられるところの多いテーマで面白かったです。やはり「政治的なるもの」ならぬ「アメリカ的なるもの」があるのだなと思いました。
懇親会での「生意気」に度が過ぎたことを1ヶ月経っても反省しています。
2010年12月10日
ここ3週間の授業(11月第4週~12月第2週)
11月下旬からいくつか〆切があったり奨学金の面接があったりと色々バタバタしており、とうとう3週間分まとめて授業記録を書くという小学生が書く夏休みの日記状態になってしまいました。あまり時間も無いので、簡単に記録だけ付けておくことにします。
まずは先々週(11月第4週)の授業について。この週は三田祭の関係で水曜日まで授業が無かったので、木曜日しか授業がありませんでした。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
今回はGCOEのシンポジウムで来日されていたお二人の先生によるゲスト講義。
お一人はカナダからいらしたMargaret Moore先生で、「領域(territory)」について、もう一人はスウェーデンからいらしたLudvig Beckman先生で、"Is Residence Special? Democracy in the Age of Migration and Human Mobility"と題したグローバル化時代における民主主義のあり方について、それぞれ30分程度の講演でした。
日本にいながらこうやって海外からいらした先生の話を聞くことが出来るのは貴重な機会だとは思うのですが……国際政治を研究している自分にとって、グローバル正義論やグローバル・デモクラシー論のような政治理論家の議論は、率直に言って政治理論家のための政治理論にしか聞こえてきません。
確かにEUはその在り方をどのように考えるべきか難しい点もありますが、なぜ国際社会が依然として主権国家を中心に形成されているのかといった、国際政治学が前提とするような「そもそも」の話がすっぽり抜け落ちているからです。
あるべき姿を探る意味での政治理論に徹するのであればいいのですが、安易にグローバル化といった「変化」が現実に起こっていると過度に強調するので、余計に自分に合わないのかもしれません。
続いて先週(11月第5週/12月第1週)の授業について。水曜日の院ゼミは師匠が出張のため休講、プロジェクト科目はゲストの先生の都合で土曜日にありました。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
この回は私が報告担当でした。
日米関係をテーマにしたある本の一章としてまとめることを念頭に、国際政治学会で報告したペーパーをベースに「中東紛争と石油をめぐる日米関係――第一次石油危機の再検討」と題して報告をしました。
これまで「日本外交」の視点から研究を進めてきましたが、今回は共著企画に合わせて、9月の資料収集で見た米国の資料を使いつつ「日米関係」から報告を作った点が自分としては新しい点です。ポイントは、先行研究批判の観点から議論を作るのではなく、第一次石油危機と第四次中東戦争が日米両国に突き付けた課題を素直に検討してみようということで、政治・経済・安全保障の各面をバランス良く取り上げることを心がけました。また、日本と同じように石油危機に苦しんだEC諸国の対応や、石油危機の冷戦史における意味にも触れることによって、「中東紛争と石油危機をめぐる日米関係」を多少なりともグローバルな文脈に置いて考えることも意識した点です。
先行研究のイメージとはかなり異なる日米関係像を描いたのですが、この点についてはほとんど批判も無かったので、大体の流れはこれでいけるんじゃないかという手応えです。
先生や受講者からのコメントでは、日米関係や石油&中東紛争と最初にテーマを設定することによって見えなくなってしまうことがあるのではないか、ということが特に印象に残りました。もちろん、研究の焦点は定めなければいけないわけですが、なぜこのテーマを取り上げる意味があるのか、このテーマを研究することで何が見えるのか、ということはもう少し意識的に書いていく必要があるのかもしれません。
<土曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
この3月まで慶應にいらして4月に就職されたばかりの先輩がゲスト講師でした。テーマは、「対テロ戦争と正戦論――自衛概念の再検討を中心に」です。詳しくは、今週の授業の記録で書きます。
そしてようやく、今週(12月第2週)の授業です。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
さて、再び(というか4度目の)修士課程の学生による修士論文の中間報告でした。
サミット開始前後の米欧関係の話で、自分の研究にも関係するので、色々と勉強になりました。研究途中の話なので、ここにはテーマだけということで。
授業でも議論になったことを一般化して言うと、研究テーマをどのような文脈に位置付けるのかを意識するか、ということでしょうか。実は、私が修士論文を書く時にはこれをものすごく意識したのですが、どうもこの問題意識はあまり多くの院生には共有されていないのかもしれません。
一次資料を使う歴史研究の場合、修士論文で扱える時期やテーマはかなり狭くなってしまいます。だからこそ、自分の研究がどのような文脈に位置付けられるかを明確に意識して、書いていく必要があると思いますし、少なくとも論文にまとめる段階では、この点を押さえる必要があるのだと思います。
しかし、70年代の国際政治史を研究する院生が多いこと多いこと……。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
3週間ぶりの院ゼミ。
修士2年の後輩による修士論文中間報告でした。これまた修論の話なので、詳細は省略。
キーワードを挙げれば「世界遺産」です。専修コースで入っている後輩ですが、テーマとしても報告としても実に面白かったです。まだまだ詰めないといけない点や、意義付けについて課題はあったと思いますが、とても面白かったので、こういう話もいずれ調べてみたいなと思いました。
と思って、行政ファイル管理簿で外務省の文書について検索をかけてみると、ばっちり関係しそうなファイルがありました。研究どうこうではなく関心があるので、余裕が出来たら開示請求をかけてみようかと思います。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
前回の報告(「対テロ戦争と正戦論――自衛概念の再検討を中心に」)を受けての討論を担当しました。
「自衛」が一つのキーワードとして出ていたということ、さらにもう一人の討論者が政治理論の専門ということで、今回は国際法について色々と復習&勉強しつつ討論をまとめてみました。
もっとも、これは半分くらいは後付けで、実際には山本草二『国際法(新版)』(有斐閣、1996年)と、森肇志『自衛権の基層――国連憲章に至る歴史的展 開』(東京大学出版会、2009年)の二冊がとても刺激的で面白かったから、ちょっと国際法について自分なりに考えてみようと思ったからという事情もあり ます。
討論では、国際法の意義や自衛権の類型について色々と書いたのですが、正戦論との関係で自分が主張したかったことは、「自衛権など国際法の領域で深く議論されていることを入れてしまうと、正戦論が本来持つ規範理論としての力を失ってしまうのではないか」ということです。
国際法については、ずっと少しずつ勉強をしているのですが、もう少し本格的に勉強してみたいと思いました。
◇◇◇
まずは先々週(11月第4週)の授業について。この週は三田祭の関係で水曜日まで授業が無かったので、木曜日しか授業がありませんでした。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
今回はGCOEのシンポジウムで来日されていたお二人の先生によるゲスト講義。
お一人はカナダからいらしたMargaret Moore先生で、「領域(territory)」について、もう一人はスウェーデンからいらしたLudvig Beckman先生で、"Is Residence Special? Democracy in the Age of Migration and Human Mobility"と題したグローバル化時代における民主主義のあり方について、それぞれ30分程度の講演でした。
日本にいながらこうやって海外からいらした先生の話を聞くことが出来るのは貴重な機会だとは思うのですが……国際政治を研究している自分にとって、グローバル正義論やグローバル・デモクラシー論のような政治理論家の議論は、率直に言って政治理論家のための政治理論にしか聞こえてきません。
確かにEUはその在り方をどのように考えるべきか難しい点もありますが、なぜ国際社会が依然として主権国家を中心に形成されているのかといった、国際政治学が前提とするような「そもそも」の話がすっぽり抜け落ちているからです。
あるべき姿を探る意味での政治理論に徹するのであればいいのですが、安易にグローバル化といった「変化」が現実に起こっていると過度に強調するので、余計に自分に合わないのかもしれません。
◇◇◇
続いて先週(11月第5週/12月第1週)の授業について。水曜日の院ゼミは師匠が出張のため休講、プロジェクト科目はゲストの先生の都合で土曜日にありました。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
この回は私が報告担当でした。
日米関係をテーマにしたある本の一章としてまとめることを念頭に、国際政治学会で報告したペーパーをベースに「中東紛争と石油をめぐる日米関係――第一次石油危機の再検討」と題して報告をしました。
これまで「日本外交」の視点から研究を進めてきましたが、今回は共著企画に合わせて、9月の資料収集で見た米国の資料を使いつつ「日米関係」から報告を作った点が自分としては新しい点です。ポイントは、先行研究批判の観点から議論を作るのではなく、第一次石油危機と第四次中東戦争が日米両国に突き付けた課題を素直に検討してみようということで、政治・経済・安全保障の各面をバランス良く取り上げることを心がけました。また、日本と同じように石油危機に苦しんだEC諸国の対応や、石油危機の冷戦史における意味にも触れることによって、「中東紛争と石油危機をめぐる日米関係」を多少なりともグローバルな文脈に置いて考えることも意識した点です。
先行研究のイメージとはかなり異なる日米関係像を描いたのですが、この点についてはほとんど批判も無かったので、大体の流れはこれでいけるんじゃないかという手応えです。
先生や受講者からのコメントでは、日米関係や石油&中東紛争と最初にテーマを設定することによって見えなくなってしまうことがあるのではないか、ということが特に印象に残りました。もちろん、研究の焦点は定めなければいけないわけですが、なぜこのテーマを取り上げる意味があるのか、このテーマを研究することで何が見えるのか、ということはもう少し意識的に書いていく必要があるのかもしれません。
<土曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
この3月まで慶應にいらして4月に就職されたばかりの先輩がゲスト講師でした。テーマは、「対テロ戦争と正戦論――自衛概念の再検討を中心に」です。詳しくは、今週の授業の記録で書きます。
◇◇◇
そしてようやく、今週(12月第2週)の授業です。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
さて、再び(というか4度目の)修士課程の学生による修士論文の中間報告でした。
サミット開始前後の米欧関係の話で、自分の研究にも関係するので、色々と勉強になりました。研究途中の話なので、ここにはテーマだけということで。
授業でも議論になったことを一般化して言うと、研究テーマをどのような文脈に位置付けるのかを意識するか、ということでしょうか。実は、私が修士論文を書く時にはこれをものすごく意識したのですが、どうもこの問題意識はあまり多くの院生には共有されていないのかもしれません。
一次資料を使う歴史研究の場合、修士論文で扱える時期やテーマはかなり狭くなってしまいます。だからこそ、自分の研究がどのような文脈に位置付けられるかを明確に意識して、書いていく必要があると思いますし、少なくとも論文にまとめる段階では、この点を押さえる必要があるのだと思います。
しかし、70年代の国際政治史を研究する院生が多いこと多いこと……。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
3週間ぶりの院ゼミ。
修士2年の後輩による修士論文中間報告でした。これまた修論の話なので、詳細は省略。
キーワードを挙げれば「世界遺産」です。専修コースで入っている後輩ですが、テーマとしても報告としても実に面白かったです。まだまだ詰めないといけない点や、意義付けについて課題はあったと思いますが、とても面白かったので、こういう話もいずれ調べてみたいなと思いました。
と思って、行政ファイル管理簿で外務省の文書について検索をかけてみると、ばっちり関係しそうなファイルがありました。研究どうこうではなく関心があるので、余裕が出来たら開示請求をかけてみようかと思います。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
前回の報告(「対テロ戦争と正戦論――自衛概念の再検討を中心に」)を受けての討論を担当しました。
「自衛」が一つのキーワードとして出ていたということ、さらにもう一人の討論者が政治理論の専門ということで、今回は国際法について色々と復習&勉強しつつ討論をまとめてみました。
もっとも、これは半分くらいは後付けで、実際には山本草二『国際法(新版)』(有斐閣、1996年)と、森肇志『自衛権の基層――国連憲章に至る歴史的展 開』(東京大学出版会、2009年)の二冊がとても刺激的で面白かったから、ちょっと国際法について自分なりに考えてみようと思ったからという事情もあり ます。
討論では、国際法の意義や自衛権の類型について色々と書いたのですが、正戦論との関係で自分が主張したかったことは、「自衛権など国際法の領域で深く議論されていることを入れてしまうと、正戦論が本来持つ規範理論としての力を失ってしまうのではないか」ということです。
国際法については、ずっと少しずつ勉強をしているのですが、もう少し本格的に勉強してみたいと思いました。
2010年12月06日
さよならソクラテス先生
どうも、ウェブ上のサービスとは相性が良くないようで、「死神」状態です。
最初にブログを作ったドリコムに続いて、アクセス解析付きのブログパーツとして利用してきたブログペットもサービス終了となってしまいました。
ソクラテスと命名し、これまで5年以上可愛がってきたのですが、サービス終了ということで…泣く泣く野に返しました。
livedoorのブログサービスは長く続いてくれるといいのですが、この調子だとどうなることやら。
最初にブログを作ったドリコムに続いて、アクセス解析付きのブログパーツとして利用してきたブログペットもサービス終了となってしまいました。
ソクラテスと命名し、これまで5年以上可愛がってきたのですが、サービス終了ということで…泣く泣く野に返しました。
livedoorのブログサービスは長く続いてくれるといいのですが、この調子だとどうなることやら。
2010年11月20日
先週&今週の授業(11月第2週&11月第3週)
今日から三田祭ということで、大学はとても楽しい雰囲気に包まれています。それでも変わらず大学院棟にこもる生活を続け…と思っているのですが、ついつい昼間から酒でも飲んでゆるりという誘惑に駆られてしまいます。悪友や卒業したゼミの後輩が三田に来たらいいような悪いような、そんな気分、と考えている時点でキャンパス内の浮かれ気分が伝染っているのでしょう。
そんな感じで、あまり目の前の課題に集中出来ていないので、ブログを更新することにしました。
まずは先週(11月第2週)について。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
「冷戦史」の授業のはずが、「冷戦」に絡まない修士論文構想報告が3週目に入りました(笑)
報告は、戦間期のイギリス外交のお話で、いつものことながら勉強させて貰いました。自分の専門(戦後日本外交史)から離れて水準の高い議論を日々聞くことが出来るのは、いまの我が大学のとても恵まれているところです。
それはそれで悪くないものの、これだけ続くと、せっかく「冷戦史」と銘打った授業を履修するのだから、自分の目の前の課題から少しでも離れて、「冷戦」と いう重要な問題に自分ならばどう取り組むのかという問題意識を持ってもいいのではないかなという気持ちが段々と強くなってきました。
と思いながらも、自分の報告予定の話は少なくとも正面から「冷戦」を取り上げるわけではないので、あまり大きなことは言えないですね。多少なりとも授業の趣旨を踏まえて、議論を膨らませていきたいと思います。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
院生の研究報告予定が無いということで、一ヶ月ぶりにスキデルスキー『ケインズ』を読みました。
前回は、ケインズの生涯と哲学的背景がテーマの章を読みましたが、今回の範囲は「第3章 貨幣改革論者」&「第4章 『一般理論』」ということで、議論の中身はものすごく経済学的な話でした。
『貨幣改革論』(1923年)から『チャーチル氏の経済的帰結』(1925年)、『貨幣論』(1930年)を経て、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)に至る経済学的な思索が、時代背景や議論の展開と共に跡付けられているので、この二つの章はとても勉強になります。ただ、論旨もすっきりしているので話の中身そのものを理解することはそれほど大変では無いと思うものの、これはどのように政治学の観点から議論出来るかというイメージが湧かず、発表者は大変だろうなと思いながら授業に臨みました。
議論好きかつ分からない箇所は分からないと言う面々が集まっているので、授業はとても盛り上がりましたが、やはりこの辺りの話は政治学的な議論にはならないのだなと再確認しました。今回取り上げた章で描かれる経済学的な知見を基にして、ケインズがいかに政策提言を行っていくのか、交渉に臨んだのかといったことが次の機会に取り上げるであろう章のテーマなので、今回はそれに向けた基礎知識の確認といった位置付けでいいのかもしれません。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
今回は、M2の修士論文中間報告×2でした。何か今期は「中間報告」ばかり聞いている気がします。
自分がM2だった頃を振り返ると、そんなに偉そうなことは言えないわけですが、やはり論文として仕上げるために必要な「作法」を踏まえているかどうかは、報告を聞くとすぐに伝わってきてしまいます。それを意識して研究を進めてきたかどうかが、修論の中間報告がうまくいくかどうかの分かれ目なのかもしれません。
この授業も、ひとまずこの回でM2の報告は終わりになるようです。
続いて今週(11月第3週)の授業について。今週は、院ゼミが先生の出張の為に休講になり、さらに木曜日から三田祭に向けて大学全体が休みになってしまったので、月曜しか授業がありませんでした。ちなみに、院ゼミは先生の出張が重なり、次回は12月8日です。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
5回目にしてようやく本来のテーマ(冷戦の検討―今何が、問題になりうるのか)にふさわしい授業でした。
報告は「ソ連の冷戦敗北は必然だったのか:ソ連による改革の試みの評価」と題したもので、いわゆる「新しい冷戦史(New Cold War history)」の研究成果を咀嚼した学術的なエッセイといった趣きで、とても面白かったです。報告者は、戦間期初期のイギリス外交が専門なのですが、幅の広さと練られた問題意識にとても刺激を受けました。
取り上げられた主な本は、Archie Brown, The Rise and Fall of Communism, (London: Bodley Head, 2009); Melvyn P. Leffler, For the Soul of Mankind: The United States, the Soviet Union, and the Cold War, (New York: Hill and Wang, 2007); William Taubman, Khrushchev: The Man and His Era, (New York: W. W. Norton, 2003); Odd Arne Westad, The Global Cold War: Third World Interventions and the Making of Our Times, (Cambridge: Cambridge University Press, 2005); Vladislav M. Zubok, A Failed Empire: The Soviet Union in the Cold War from Stalin to Gorvachev, (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2007); 塩川伸明『冷戦終結20年――何が、どのようにして終わったのか』(勁草書房、2010年)で、自分も半分くらいは読んでいるものの、まだまだ「新しい冷戦史」を読み足りないと再確認しました。
これらの文献をうまく噛み砕いて紹介している日本語文献は無いので、もう少し幅を広げて書評論文を投稿してみたらいいのになあ…とこれは無責任なつぶやきです。
授業は議論もとても盛り上がりました。特に印象的だった点は、上記の文献を使ったことのある種の必然として浮かび上がる欧米中心的な見方に関する議論と、ゴルバチョフをどのように考えるかという議論です。「アーチー・ブラウンは世界最大のゴルバチョフ主義者」だとしても、それを超えて何を導くのかは実に難しい問題で、この問題に改革開放後の中国評価や、レーニンとスターリンの違いなどの議論が結びつくのだから面白くないわけがありません。
自分の研究に引き付けて、「戦後日本」という要因をどのように冷戦史の中に組み込めるかなあ、などと考えながら授業を終えましたが、各々がそれぞれの専門をある程度でも超えて試論的でも良いので「冷戦史」について考えられる時間が続くことを切に望みます。
…と書いたものの、次回の報告担当の自分がそれをでどこまで出来るかははなはだ心許ないです。
そんな感じで、あまり目の前の課題に集中出来ていないので、ブログを更新することにしました。
◇◇◇
まずは先週(11月第2週)について。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
「冷戦史」の授業のはずが、「冷戦」に絡まない修士論文構想報告が3週目に入りました(笑)
報告は、戦間期のイギリス外交のお話で、いつものことながら勉強させて貰いました。自分の専門(戦後日本外交史)から離れて水準の高い議論を日々聞くことが出来るのは、いまの我が大学のとても恵まれているところです。
それはそれで悪くないものの、これだけ続くと、せっかく「冷戦史」と銘打った授業を履修するのだから、自分の目の前の課題から少しでも離れて、「冷戦」と いう重要な問題に自分ならばどう取り組むのかという問題意識を持ってもいいのではないかなという気持ちが段々と強くなってきました。
と思いながらも、自分の報告予定の話は少なくとも正面から「冷戦」を取り上げるわけではないので、あまり大きなことは言えないですね。多少なりとも授業の趣旨を踏まえて、議論を膨らませていきたいと思います。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
院生の研究報告予定が無いということで、一ヶ月ぶりにスキデルスキー『ケインズ』を読みました。
前回は、ケインズの生涯と哲学的背景がテーマの章を読みましたが、今回の範囲は「第3章 貨幣改革論者」&「第4章 『一般理論』」ということで、議論の中身はものすごく経済学的な話でした。
『貨幣改革論』(1923年)から『チャーチル氏の経済的帰結』(1925年)、『貨幣論』(1930年)を経て、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)に至る経済学的な思索が、時代背景や議論の展開と共に跡付けられているので、この二つの章はとても勉強になります。ただ、論旨もすっきりしているので話の中身そのものを理解することはそれほど大変では無いと思うものの、これはどのように政治学の観点から議論出来るかというイメージが湧かず、発表者は大変だろうなと思いながら授業に臨みました。
議論好きかつ分からない箇所は分からないと言う面々が集まっているので、授業はとても盛り上がりましたが、やはりこの辺りの話は政治学的な議論にはならないのだなと再確認しました。今回取り上げた章で描かれる経済学的な知見を基にして、ケインズがいかに政策提言を行っていくのか、交渉に臨んだのかといったことが次の機会に取り上げるであろう章のテーマなので、今回はそれに向けた基礎知識の確認といった位置付けでいいのかもしれません。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
今回は、M2の修士論文中間報告×2でした。何か今期は「中間報告」ばかり聞いている気がします。
自分がM2だった頃を振り返ると、そんなに偉そうなことは言えないわけですが、やはり論文として仕上げるために必要な「作法」を踏まえているかどうかは、報告を聞くとすぐに伝わってきてしまいます。それを意識して研究を進めてきたかどうかが、修論の中間報告がうまくいくかどうかの分かれ目なのかもしれません。
この授業も、ひとまずこの回でM2の報告は終わりになるようです。
◇◇◇
続いて今週(11月第3週)の授業について。今週は、院ゼミが先生の出張の為に休講になり、さらに木曜日から三田祭に向けて大学全体が休みになってしまったので、月曜しか授業がありませんでした。ちなみに、院ゼミは先生の出張が重なり、次回は12月8日です。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
5回目にしてようやく本来のテーマ(冷戦の検討―今何が、問題になりうるのか)にふさわしい授業でした。
報告は「ソ連の冷戦敗北は必然だったのか:ソ連による改革の試みの評価」と題したもので、いわゆる「新しい冷戦史(New Cold War history)」の研究成果を咀嚼した学術的なエッセイといった趣きで、とても面白かったです。報告者は、戦間期初期のイギリス外交が専門なのですが、幅の広さと練られた問題意識にとても刺激を受けました。
取り上げられた主な本は、Archie Brown, The Rise and Fall of Communism, (London: Bodley Head, 2009); Melvyn P. Leffler, For the Soul of Mankind: The United States, the Soviet Union, and the Cold War, (New York: Hill and Wang, 2007); William Taubman, Khrushchev: The Man and His Era, (New York: W. W. Norton, 2003); Odd Arne Westad, The Global Cold War: Third World Interventions and the Making of Our Times, (Cambridge: Cambridge University Press, 2005); Vladislav M. Zubok, A Failed Empire: The Soviet Union in the Cold War from Stalin to Gorvachev, (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2007); 塩川伸明『冷戦終結20年――何が、どのようにして終わったのか』(勁草書房、2010年)で、自分も半分くらいは読んでいるものの、まだまだ「新しい冷戦史」を読み足りないと再確認しました。
これらの文献をうまく噛み砕いて紹介している日本語文献は無いので、もう少し幅を広げて書評論文を投稿してみたらいいのになあ…とこれは無責任なつぶやきです。
授業は議論もとても盛り上がりました。特に印象的だった点は、上記の文献を使ったことのある種の必然として浮かび上がる欧米中心的な見方に関する議論と、ゴルバチョフをどのように考えるかという議論です。「アーチー・ブラウンは世界最大のゴルバチョフ主義者」だとしても、それを超えて何を導くのかは実に難しい問題で、この問題に改革開放後の中国評価や、レーニンとスターリンの違いなどの議論が結びつくのだから面白くないわけがありません。
自分の研究に引き付けて、「戦後日本」という要因をどのように冷戦史の中に組み込めるかなあ、などと考えながら授業を終えましたが、各々がそれぞれの専門をある程度でも超えて試論的でも良いので「冷戦史」について考えられる時間が続くことを切に望みます。
…と書いたものの、次回の報告担当の自分がそれをでどこまで出来るかははなはだ心許ないです。
2010年11月08日
この数日に読んだ本/先週&先々週の授業(10月第5週&11月第1週)
先週来引いている風邪がまだ完全に治りきっていません。最初は喉が痛いなと思っていたのですが、どうやら細菌だかウイルスがさらに奥に入ってしまったようで、軽い気管支炎のような症状です。だるいわけでも熱があるわけでもないので気にしなければいいのかもしれませんが、何となく集中が途切れがちでよくありません。
やらなければいけないことは山積しているのですが、体調を直すのが先だろうということで早く布団に入る=読書時間が増えるということで、この数日の間に以下の三冊を読みました。どれも面白く本格的な書評が出来るだけの本ですが、ひとまず簡単な紹介だけしておきます。
※例のごとく、版元情報は画像にリンクしてあります。
最初は国際政治学会の書籍販売コーナーで入手した一冊、君塚直隆『近代ヨーロッパ国際政治史』(有斐閣)です。風邪でウンウン言っている間もじっくり読み続けていました。
著者である君塚先生の狭い意味でのご専門は19世紀のイギリス外交&イギリス政治だと思うのですが、個人的にはこの本の読みどころは、むしろその前の時代である19世紀に至る部分なのではないかと思います。19世紀以降については、同じく君塚先生の手による章が含まれている細谷雄一・編『イギリスとヨーロッパ――孤立と統合の二百年』(勁草書房、2009年)、佐々木雄太、木畑洋一・編『イギリス外交史』(有斐閣、2005年)などもありますが、それ以前の時代がこれだけコンパクトかつ読みやすい形でまとめられたことは無いのではないでしょうか。
とりわけ面白く勉強になったことは、「ウェストファリア神話の解体」です。このように銘打たれているわけではありませんが、神聖ローマ帝国崩壊以前のヨーロッパ国際関係史を丁寧に描き出すことによって、ウェストファリア条約締結以降のヨーロッパ国際政治がどれだけ多層的かつ複雑なものだったかイキイキとした形で読者に伝わってきます。
君塚先生自身が翻訳されたベンノ・テシィケ『近代国家体系の形成――ウェストファリアの神話』(桜井書店)や、明石欽司『ウェストファリア条約――その実像と神話』(慶應義塾大学出版会)など、最新の研究成果を踏まえつつ、通史の中で「ウェストファリア神話の解体」を行ったことはとても重要なことだと思います(ちなみ『ウェストファリア条約』について君塚先生の書評が東京財団HPに載っています[リンク])。
私自身まだうまく消化出来ていませんが、『近代ヨーロッパ国際政治史』を読むと、「1648年のウェストファリア条約締結以降~」というお決まりのフレーズを使うのを誰もが躊躇うのではないでしょうか。
その神話性は、上記二冊の本だけでなく、90年代前半にクラズナーも指摘していたことではありますが、ウェストファリア条約締結以降の国際政治の実態が非常に読みやすい通史の形で読めるようになったことはとても重要なことだと思います。
続いて読んだのは、伊藤之雄『京都の近代と天皇――御所をめぐる伝統と革新の都市空間1868~1952』(千倉書房、2010年)です。実は10月に読みかけたものの、目の前の研究で一杯一杯になって一旦ストップしていた一冊です。
都市史や建築史は一つのジャンルとして確立しており多数の研究があるものの、それをうまく政治史と繋ぎ合わせることはそう簡単なことではありません。私自身に都市史や建築史の知識がほとんど無いので、専門的な立場から論評を加えることは出来ませんが、この本は、政治と都市、政治と建築といったことに関心のある読者にとっては実に面白い一冊に仕上がっていると思います(ただし、読みやすさや入り込みやすさ、テーマの広がりという点では、同じ時期に刊行された御厨貴『権力の館を歩く』(毎日新聞社)の方がいいかもしれません)。
我々のイメージする古都・京都というイメージや、御所を中心に広がる京都の空間がいかにして作られていったのか、その政治利用がどのような形で行われてきたのかを丁寧に跡付けており、早くまた京都の街を歩いてみたいと思わされます。
中身には全然関係ありませんが、こういうある意味での「ご当地モノ」はやっぱりその地域で売れるものなのかが少し気になります。
最後は、福本邦雄『表舞台 裏舞台――福本邦雄回顧録』(講談社、2007年)。この名前を見てピンと来る方は相当の日本政治好きだと思います。先日、死去の報が流れましたが、「フジ・インターナショナル・アート会長」や「旧KBS京都社長」の肩書きでは、何をやった人なのかよく分かりません。
父は福本イズムで有名な福本和夫、産経新聞記者を経て椎名悦三郎の秘書として政治に本格的に関与するようになり、その後は画商・コンサルタント業を務める傍らで財界と政界のパイプ役のような立場に収まり…といったことが語られる際に引かれる人です。この本は、伊藤隆・御厨貴両先生をインタビューにしたオーラル・ヒストリーを基にした一冊です。
刊行時にざっと読んでいましたが、改めて読み直してみると色々な発見があり面白かったです。ただし、若干玄人向けの本かもしれません。この本だけ読んでも本当の面白さはおそらく半分くらいしか分からないのではないでしょうか。安保改定、ポスト佐藤、40日抗争、創政会旗揚げ等々、様々なテーマが取り上げられていますが、その背景や一般的なイメージを知った上で読むと、この本の面白さは倍加します。
この辺りはさすが御厨先生(本書の基になったオーラル・ヒストリーのインタビュアーの一人)で、『アステイオン』で連載されていた「近代思想の対比列伝――オーラル・ヒストリーから見る」では、他のオーラル(例えば、竹下登や宮澤喜一など)を引く際の「補助線」として『表舞台 裏舞台』をうまく使っています。
ともかく、日本政治に関心がある方ならば一度は手に取って欲しい本です。
ほとんど自分の備忘録と化している授業内容の記録も一応書いておきます。まずは先々週の授業(10月最終週)について。この週は修士論文の構想&中間発表ばかり聞いていた気がします。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
前回に引き続き、M2の院生による修士論文中間報告。テーマ的に、自分の研究に重なる部分も多くとても勉強になりました。「中間報告」なので、内容紹介は割愛します。
力の入った修士論文の中間報告は聴いていても面白く勉強にもなるのですが、シラバスに書かれている授業テーマ「冷戦の検討――今何が、問題になりうるのか」を楽しみにしていただけに、「冷戦」に関係する報告がいまのところ一つも無いというのはやや残念なところです。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
戦間期のイギリス外交を専攻するM1の後輩による修士論文構想報告でした。
狭い意味での研究テーマに留まらず、夏休みの勉強の成果であろうより大きな「国際秩序」を中心に据えた報告で議論もとても盛り上がりました。M1の段階でこれだけ先行研究を消化し、大きな問題意識を持っているとは驚異です。
これまで未発表の研究なので詳細は書きませんが、抽象的に言えば、大→中→小という形で問題が整理されていることで、実際に修士論文で取り扱う「小」の課題の意義が逆に見えにくくなってしまっているのではないかと感じました。
ある先生に言われたことの受け売りですが、修士論文は調査にも執筆にもかけられる時間は限られているので、どれだけ背後に広がりのある「小さな」テーマを見つけられるかがポイントだと思います。それが正しければ、「大→中→小」ではなく、「中→小→大」といった構成の方が、研究の意図や問題意識はより伝わるのではないでしょうか。
…ここまで抽象的に書くと何のことだかさっぱり分かりませんね(笑)
いずれにしても、面白い研究をしてくれそうなので、話の面白さが分かる程度には自分も戦間期研究を追いかけてみたいと思います。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
16世紀イギリス政治思想(ロバート・フィルマー)を研究しているM2による修士論文中間報告でした。論文提出約3ヶ月前の「中間報告」とは思えないほどに議論の完成度も高く素直に感心しました。
色々と書いておきたいこともあるのですが、「中間報告」ということで内容は割愛します。今週はこればっか(笑)
<金曜日~日曜日>
前回の記事に書いた通り、国際政治学会の2010年度研究大会@札幌に参加してきました。
自分の出番は初日最初の部会だったので、残りの時間は比較的余裕を持って他の部会&分科会に参加できました。体調が途中から優れず、頭の回転がいま一つだったという問題はありましたが、昨年・一昨年と同じように、刺激を受ける報告が多かったです。
これまた昨年・一昨年と同じなのですが、今年もまたヨーロッパ外交史を取り扱った分科会が面白かったです。資料の公開状況もあり、ヨーロッパ外交史でも日本外交史と同じく1960年代後半から70年代半ばにかけての研究が充実してきており、先行研究も踏まえた上で一次資料を渉猟した研究は安定感と面白さがありました。
自分の研究も、狭い意味で同じ領域を研究している専門家だけでなく、もう少し広い隣接分野の読み手を意識して書かなければいけないなと思った次第です。
続いて先週の授業(11月第1週)。もっとも、今週は早慶戦で月曜が休講になり、水曜日が祝日(文化の日)のため木曜日だけです。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
前回の報告を受けての院生討論でしたが、「前回」とは先々週の木曜日のことではなく、先々週の土曜日のことです。講師に来る先生の都合次第で、この授業は土曜日に開催されることがあるのです。この日は札幌にいたため残念ながら出席出来ず、討論の回のみの参加になってしまいました。
課題文献(井上彰「平等の価値」『思想』2010年10月号)は読んでいき、それなりに話したい事や考えた事もあったのですが、どうも報告を聞いていないと乗り切れず、消化不良のまま終わってしまいました。英米系の正義論の先端を行く先生の回だっただけに、ちゃんと参加できなかったことが悔やまれます。
ちなみに討論で話題になったことは、方法論的個人主義の持つ問題、正義論を議論する際の前提、「平等」という価値の位相などで、これはこれで非常に勉強になりました。
前期はやたらと政治思想(or政治理論)づいていたのですが、どうも後期はあまり思想関係の頭を使えていないような気がします。
◇◇◇
やらなければいけないことは山積しているのですが、体調を直すのが先だろうということで早く布団に入る=読書時間が増えるということで、この数日の間に以下の三冊を読みました。どれも面白く本格的な書評が出来るだけの本ですが、ひとまず簡単な紹介だけしておきます。
※例のごとく、版元情報は画像にリンクしてあります。
最初は国際政治学会の書籍販売コーナーで入手した一冊、君塚直隆『近代ヨーロッパ国際政治史』(有斐閣)です。風邪でウンウン言っている間もじっくり読み続けていました。
著者である君塚先生の狭い意味でのご専門は19世紀のイギリス外交&イギリス政治だと思うのですが、個人的にはこの本の読みどころは、むしろその前の時代である19世紀に至る部分なのではないかと思います。19世紀以降については、同じく君塚先生の手による章が含まれている細谷雄一・編『イギリスとヨーロッパ――孤立と統合の二百年』(勁草書房、2009年)、佐々木雄太、木畑洋一・編『イギリス外交史』(有斐閣、2005年)などもありますが、それ以前の時代がこれだけコンパクトかつ読みやすい形でまとめられたことは無いのではないでしょうか。
とりわけ面白く勉強になったことは、「ウェストファリア神話の解体」です。このように銘打たれているわけではありませんが、神聖ローマ帝国崩壊以前のヨーロッパ国際関係史を丁寧に描き出すことによって、ウェストファリア条約締結以降のヨーロッパ国際政治がどれだけ多層的かつ複雑なものだったかイキイキとした形で読者に伝わってきます。
君塚先生自身が翻訳されたベンノ・テシィケ『近代国家体系の形成――ウェストファリアの神話』(桜井書店)や、明石欽司『ウェストファリア条約――その実像と神話』(慶應義塾大学出版会)など、最新の研究成果を踏まえつつ、通史の中で「ウェストファリア神話の解体」を行ったことはとても重要なことだと思います(ちなみ『ウェストファリア条約』について君塚先生の書評が東京財団HPに載っています[リンク])。
私自身まだうまく消化出来ていませんが、『近代ヨーロッパ国際政治史』を読むと、「1648年のウェストファリア条約締結以降~」というお決まりのフレーズを使うのを誰もが躊躇うのではないでしょうか。
その神話性は、上記二冊の本だけでなく、90年代前半にクラズナーも指摘していたことではありますが、ウェストファリア条約締結以降の国際政治の実態が非常に読みやすい通史の形で読めるようになったことはとても重要なことだと思います。
続いて読んだのは、伊藤之雄『京都の近代と天皇――御所をめぐる伝統と革新の都市空間1868~1952』(千倉書房、2010年)です。実は10月に読みかけたものの、目の前の研究で一杯一杯になって一旦ストップしていた一冊です。
都市史や建築史は一つのジャンルとして確立しており多数の研究があるものの、それをうまく政治史と繋ぎ合わせることはそう簡単なことではありません。私自身に都市史や建築史の知識がほとんど無いので、専門的な立場から論評を加えることは出来ませんが、この本は、政治と都市、政治と建築といったことに関心のある読者にとっては実に面白い一冊に仕上がっていると思います(ただし、読みやすさや入り込みやすさ、テーマの広がりという点では、同じ時期に刊行された御厨貴『権力の館を歩く』(毎日新聞社)の方がいいかもしれません)。
我々のイメージする古都・京都というイメージや、御所を中心に広がる京都の空間がいかにして作られていったのか、その政治利用がどのような形で行われてきたのかを丁寧に跡付けており、早くまた京都の街を歩いてみたいと思わされます。
中身には全然関係ありませんが、こういうある意味での「ご当地モノ」はやっぱりその地域で売れるものなのかが少し気になります。
最後は、福本邦雄『表舞台 裏舞台――福本邦雄回顧録』(講談社、2007年)。この名前を見てピンと来る方は相当の日本政治好きだと思います。先日、死去の報が流れましたが、「フジ・インターナショナル・アート会長」や「旧KBS京都社長」の肩書きでは、何をやった人なのかよく分かりません。
父は福本イズムで有名な福本和夫、産経新聞記者を経て椎名悦三郎の秘書として政治に本格的に関与するようになり、その後は画商・コンサルタント業を務める傍らで財界と政界のパイプ役のような立場に収まり…といったことが語られる際に引かれる人です。この本は、伊藤隆・御厨貴両先生をインタビューにしたオーラル・ヒストリーを基にした一冊です。
刊行時にざっと読んでいましたが、改めて読み直してみると色々な発見があり面白かったです。ただし、若干玄人向けの本かもしれません。この本だけ読んでも本当の面白さはおそらく半分くらいしか分からないのではないでしょうか。安保改定、ポスト佐藤、40日抗争、創政会旗揚げ等々、様々なテーマが取り上げられていますが、その背景や一般的なイメージを知った上で読むと、この本の面白さは倍加します。
この辺りはさすが御厨先生(本書の基になったオーラル・ヒストリーのインタビュアーの一人)で、『アステイオン』で連載されていた「近代思想の対比列伝――オーラル・ヒストリーから見る」では、他のオーラル(例えば、竹下登や宮澤喜一など)を引く際の「補助線」として『表舞台 裏舞台』をうまく使っています。
ともかく、日本政治に関心がある方ならば一度は手に取って欲しい本です。
◇◇◇
ほとんど自分の備忘録と化している授業内容の記録も一応書いておきます。まずは先々週の授業(10月最終週)について。この週は修士論文の構想&中間発表ばかり聞いていた気がします。
<月曜日>
3限:地域研究・比較政治論特殊演習
前回に引き続き、M2の院生による修士論文中間報告。テーマ的に、自分の研究に重なる部分も多くとても勉強になりました。「中間報告」なので、内容紹介は割愛します。
力の入った修士論文の中間報告は聴いていても面白く勉強にもなるのですが、シラバスに書かれている授業テーマ「冷戦の検討――今何が、問題になりうるのか」を楽しみにしていただけに、「冷戦」に関係する報告がいまのところ一つも無いというのはやや残念なところです。
<水曜日>
2限:国際政治論特殊演習(院ゼミ)
戦間期のイギリス外交を専攻するM1の後輩による修士論文構想報告でした。
狭い意味での研究テーマに留まらず、夏休みの勉強の成果であろうより大きな「国際秩序」を中心に据えた報告で議論もとても盛り上がりました。M1の段階でこれだけ先行研究を消化し、大きな問題意識を持っているとは驚異です。
これまで未発表の研究なので詳細は書きませんが、抽象的に言えば、大→中→小という形で問題が整理されていることで、実際に修士論文で取り扱う「小」の課題の意義が逆に見えにくくなってしまっているのではないかと感じました。
ある先生に言われたことの受け売りですが、修士論文は調査にも執筆にもかけられる時間は限られているので、どれだけ背後に広がりのある「小さな」テーマを見つけられるかがポイントだと思います。それが正しければ、「大→中→小」ではなく、「中→小→大」といった構成の方が、研究の意図や問題意識はより伝わるのではないでしょうか。
…ここまで抽象的に書くと何のことだかさっぱり分かりませんね(笑)
いずれにしても、面白い研究をしてくれそうなので、話の面白さが分かる程度には自分も戦間期研究を追いかけてみたいと思います。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
16世紀イギリス政治思想(ロバート・フィルマー)を研究しているM2による修士論文中間報告でした。論文提出約3ヶ月前の「中間報告」とは思えないほどに議論の完成度も高く素直に感心しました。
色々と書いておきたいこともあるのですが、「中間報告」ということで内容は割愛します。今週はこればっか(笑)
<金曜日~日曜日>
前回の記事に書いた通り、国際政治学会の2010年度研究大会@札幌に参加してきました。
自分の出番は初日最初の部会だったので、残りの時間は比較的余裕を持って他の部会&分科会に参加できました。体調が途中から優れず、頭の回転がいま一つだったという問題はありましたが、昨年・一昨年と同じように、刺激を受ける報告が多かったです。
これまた昨年・一昨年と同じなのですが、今年もまたヨーロッパ外交史を取り扱った分科会が面白かったです。資料の公開状況もあり、ヨーロッパ外交史でも日本外交史と同じく1960年代後半から70年代半ばにかけての研究が充実してきており、先行研究も踏まえた上で一次資料を渉猟した研究は安定感と面白さがありました。
自分の研究も、狭い意味で同じ領域を研究している専門家だけでなく、もう少し広い隣接分野の読み手を意識して書かなければいけないなと思った次第です。
◇◇◇
続いて先週の授業(11月第1週)。もっとも、今週は早慶戦で月曜が休講になり、水曜日が祝日(文化の日)のため木曜日だけです。
<木曜日>
5限:プロジェクト科目(政治思想研究)
前回の報告を受けての院生討論でしたが、「前回」とは先々週の木曜日のことではなく、先々週の土曜日のことです。講師に来る先生の都合次第で、この授業は土曜日に開催されることがあるのです。この日は札幌にいたため残念ながら出席出来ず、討論の回のみの参加になってしまいました。
課題文献(井上彰「平等の価値」『思想』2010年10月号)は読んでいき、それなりに話したい事や考えた事もあったのですが、どうも報告を聞いていないと乗り切れず、消化不良のまま終わってしまいました。英米系の正義論の先端を行く先生の回だっただけに、ちゃんと参加できなかったことが悔やまれます。
ちなみに討論で話題になったことは、方法論的個人主義の持つ問題、正義論を議論する際の前提、「平等」という価値の位相などで、これはこれで非常に勉強になりました。
前期はやたらと政治思想(or政治理論)づいていたのですが、どうも後期はあまり思想関係の頭を使えていないような気がします。